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どんなことがあっても、さらさらと流れていけば平和でございますね。
今という時間を一生懸命に生きなさい。それが解脱でございます。(山田無文)


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臨済宗のお坊さんの言葉である。
「流れる水は凍らんと申します。流れる水は腐らん」とあるのを受けている。
が、それが「今を生きなさい」につながっているのは、どういうニュアンスだろう。
 
心が凍る、心が腐る。
これは今ここに無いことをぐじゃぐじゃ考え続けているからに他ならない。
人の話を聞きながら心ここにあらず。
道を歩きながら空も木も目に入らない、爽やかな風が吹き抜けても気付かない。
朝から晩まで、次から次へと浮かんでは消える空想や妄想にとりつかれて、
隣にいる友人・家族、景色、音、匂い、足の裏の感覚や掌に走る温かさ・冷たさ…
何もかも取り逃して一日を終え、一月を終え、一年を終え、やがて一生を終えてしまう。
 
私達は自分との余計なおしゃべりが多すぎるのだ。
過ぎ去ったことを口惜しがり、悲しみ、納得いかんと理屈をこねる。
とともにまだ来ぬことを憂い、怖がり、不安にさいなむ。
人生は流れている。
一瞬だって留まることはない。
考えも出来事も、浮かんでは消える浮雲のようなもの。
それなのに私達はあの一点、この一件に焦点を合わせる。
幸せにこだわり不幸にこだわる。
常にないのは「今」。
今という時をさらさらと流れ、楽しむ心があれば、本当はいつだって平和なのだ。
 
これがひっくり返った時、
つまり楽しいことにも悲しいことにもしがみつかず、こだわらず、
今、目の前にあるものをあるがままに受け容れ一生懸命に生きる時、
人生はまったく違った色彩を帯びてくるだろう。
解脱というと、何か固定した理念・観念に気付くことのようにイメージするけれど、
ただただ今という瞬間瞬間に没頭して、よけいなことを考えない状態のことらしい。
シンプルだがこんなに難しいことも他にないが。
座禅の問答が不可解に思えるのも、私達が今という瞬間を取り逃しているからなんだろう。(小林)
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2010.10.28 / Top↑
古いものは退かなければならない。
あなたの古い姿勢、
古い考え方、
哲学、
主義主張、
古い存在証明(アイデンティティ)、
古いエゴ、
これらすべてが新しいものに道をゆずらなければならない。

新しいものはつねにそこにある。
だが、それが出てこられるような空間があなたの内部にない。

                   和尚(ラジニーシ)


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「変わりたい!」という願望は、
成長への意欲あればこそだけれど、
私達はいつまでもぐるぐると同じところを巡り続けている。
スピリチュアルな話を聞き、本を読み、多かれ少なかれ実践し…と、
努力をしているつもりなのに、
ふと気付くとたいした変化のない自分に愕然。
むしろ自己反省の力がある人ほど、
そんな失意の経験も多いのではないか。

和尚の言に従えば、
それは私達が古いものを捨てられずにいるからということだが、
立ち止まって鑑みるに、
「こうなりたい!」という願いがどれだけ切実であろうと、
しょせん頭の一部分の思いでしかなく、
全身全霊…つまり無意識、潜在意識の隅々にまでこびりついた
精神上の習慣を処分しなければ、
新しいものを呼び入れるスペースがないというわけである。

早寝早起きや嗜好品といった
生活習慣ですら変えることは容易でないのに、
精神上の習慣を変えるとなると…。
が、そこをしないと動かないのであれば、
辛抱強く向き合ってみる価値もあるというものか。

古い姿勢、考え方、存在証明、エゴ。
これらの出どころを辿っていくと、
誕生以来あるいは前世以前からの
個人的・社会的経験から来ていると思われる。
ある行為から得た快・不快の膨大な数に及ぶ記憶が
潜在意識の中で強固に織りなされて、
物事の判断基準や行動基準、
自分を立たせておくために都合のよい解釈、
人のためと言いながら本当は自分のためであるエゴなどを作り上げてきた。
この一つひとつに目を向けるのは気分の悪いことに違いないけれど、
眺めることで紐解いてゆく。
真実のものでないものは眺められることで消えていくものだからだ。
そうやって空いたスペースに、
新しいものは放っておいても入ってくるのだろう。
2010.06.30 / Top↑
人間が自由になりうるのは、
自分の中にまどろんでいるもの、
目覚めさせて自由にすることのできるものを、
自分の中で育て上げたときなのです。 

                   シュタイナー


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とどのつまり、
人間が究極的に求めているのは“自由”ということではないかと思うけれど、
それは生まれた時から与えられているものではなく、
「自分の中にまどろんでいる」ものを目覚めさせて育て上げなければ得られないと言う。
この「まどろみ」という表現が私には的確に思えるのだが、
まっとうな社会人として生きるうちに抑え込まれてしまった
心の奥深くに持つ叫び=根源的な衝動のうずきを、
時折あるいは継続的に感じている人は少なくないのではないか。
違う!今のこの自分は本当の自分を生きていない!と感じる感性が残っているなら、
それは「目覚めさせて自由にすることのできるものを」育て上げるべきなのだ。
でも、「自由にすることのできるもの」って何だろう?
行動の自由ならば環境を変えることで手に入れられる。
やっかいなのは自分の中に持ち歩いている不自由に他ならない。
本当の自分でない自分を生きざるを得なくしているものは、
周りにいる誰それのせいだろうか?
自分を発揮するにふさわしい環境がないせいだろうか?
そんな外套のように脱いだり着たりできるものによって
“自由”があったりなくなったりするのだとしたら、
そんな自由は持ち歩いたってそう長くはない。
風が吹いても、嵐がきても転覆しない船を作り上げること。
自己変革。
価値観の転換。
それまでの自分を殺して新しい自分を創り続けること。
しかり、自由は不安定で、孤独で、何よりくたびれる。
だから人は自由を見たら逃げ出したくなる。
まったく自由よりも、ほどよく加工された不自由の方を好む。
綱渡りに疲れて、不自由だけど安全な方に戻ってきてしまう。
それでも心のうずきが収まらないなら、
その「まどろんでいるもの」を覚悟して育てていく外あるまい。
自由に見える人は、強い人というより正直な人なのだろう。
2010.01.23 / Top↑
周りの人が自分に期待するであろう以上のことを
自分に期待する      
                  アンソニー・ロビンズ


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「そのままでいい」と肯定し受け止めてあげる言葉が流行っている。
使う場面次第だが、
場合によっては聞き心地の良い逃げ口上として使われることもある。
「頑張らなくていい」…そう言われてホッと出来る人は、
心の闇をどろどろにさ迷い「このままじゃイヤだ」と
心底感じた経験がない人なのかもしれない。

自分以上に自分のために頑張ってくれる人はこの世のどこにもいない。
天上天下唯一無二の自分を愛おしいと思うからこそ、
自分に期待をかけ、甘やかさずに修練を重ねる。
人の目には今現在の自分しか映らない。
でも自分は知っている、自分にはまだまだ伸びしろがあることを。
だから、もっともっと大きな期待をかけることができる。

自分への期待をやめてしまえば、それはラクに違いない。
「努力」だの「忍耐」だのは今や死語になってしまったのだろうか?
「思えば叶う」「引き寄せる」なんて言っても、
未熟なままの自分に棚から落ちてきたものが
いつまで自分のものであるだろう?

今の自分に満足せず、もっと良くなりたいと願うことは、
今のままの自分を否定することではない。
生々しい現実の中で地道に頑張る自分だからこそ、
今このままの自分をも愛せるのだ。
いつか突然ステキな人生になっているのを夢見ている人は、
今の自分を直視することからも、
小さな努力を忍耐強く積み重ねることからも逃げ続けている。

どんな美徳といえども長年の努力なしに身に付くことはない。
まして「自分を愛する」なんて最上級の美徳に至っては、
愛するための器づくりに骨が折れるのは当然だ。
親に愛されなかったなんて見苦しい言い訳はやめて、
愛せる自分作りを今すぐ始めた方がいいだろう。

自分に大きな期待をかけること。
それは頑張って生きようという決断
そのものだと思う。
2009.08.27 / Top↑
今の自分を無批判に受け入れることで
どれほど鎖につながれているかに気づいてはじめて、
この状況から脱出できるのだ。
いつもの態度から自己を解き放ち、
自分を機械的に受け入れていたことを認めれば、
牢獄から抜け出す努力に大きなはずみがつくだろう。
                       ジョン・フックス


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「自由」というテーマでまとめられた章に書かれた一文。
グルジェフのワークを修養しようと集まった後輩らに
「何から自由になりたいのか?」と問うたところ、
次のような答えが挙がったという。

外面的な私からの自由
機械的な思考からの自由
恐怖からの自由
自己欺瞞からの自由
制御できない否定的で感情的な思考からの自由
私の変化を阻むものからの自由

自由とは「とらわれ」からの解放に他ならないと思う。
今ある思考パターンや価値観を切り崩せば崩すほど、
心は自由になっていく。
銀座マルカンの社長斉藤一人さんは小学生の時、
クラスメイトが次々とカスタネットを卒業して他の楽器に移っていき、
自分が最後の一人になったことを
「自分にはカスタネットの才能があって見込まれた」と話している。
むろん自分をネタにしたジョークだけれど、
要は“解釈“次第で笑い話にもなれば、
愚痴・泣き言にもなるということだ。

どうせ駄目、私なんか、負けたくない、失敗したくない、よく思われたい、
あの人のせいで、あの時ああだったから、こうでなくちゃ、損だ得だ、だって、でも…
よくぞそこまでわざわざ不幸になる“解釈”を考え出すものだと思うくらい、
人はややもすると不自由(とらわれ)を選んで生きている。
もったいない。
真逆の解釈だってできるのに。
結局、人は自分で作ったとらわれ(不自由)の牢獄の中であがいているのだ。
いつもの思考パターンを突破し、
まったく新しい、これまで考えつかなかったような“解釈”をしてみる。
それは創造行為に他ならない。
その創造行為が上達する程度に応じて、
人は自由になっているだろう。
2009.07.29 / Top↑
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