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愛する事と知る事とが、全く同じ事であったような学問を、
私達現代人は、よほど努力して想像してみなければ、納得しにくくなっている。
一冊の書物を三十年間も好きで通せば、ただの好きではない。
そういう好きでなければ持つ事のできぬ忍耐力や注意力、透徹した認識力が
『古事記伝』の文勢に明らかに感じられる。
これは今日言う実証的方法とは質を異にしている。
私達は、好き嫌いの心の動きの価値を、ひどく下落させてしまった。
(小林秀雄 『好き嫌ひ』)


先日、
長岡大学の定方昭夫先生のご尽力によって開かれた人体科学会「代替医療の今」に参加した。
日本のホリスティック医学の先駆者、帯津良一先生はその基調講演で、
「エビデンス(証拠)ということに西洋医学の人達はこだわるけれど、
科学の解明が追いついていない心とか命を扱っているのだから、エビデンスがないのは当たり前。
エビデンスはあった方がいいけれど、それがないからと切ってしまうのはおかしい」と話されていた。

医者の仕事の傍ら『古事記』を30年もの間、熟読、精読、愛読し、
そこに記された真実を読み貫き、本にまとめて発表した本居宣長。
『古事記伝』が発行された時には既に他界していたというから驚く。
宣長は『古事記』を愛して、愛してやまなかったのだろう。
そうでなければこんな気の遠くなるような仕事をやり通せるとは思えない。
そしてそれはきわめて実証的なものであったけれど、
いわゆる科学的なものではなかった。
周りの学者からは頭がおかしくなったと評され、
現代でも正当な評価を得ているとは言い難い。

『古事記伝』に著されたオカルティックな内容にせよ、
代替医療の真偽にせよ、
物事の矛盾や不合理を指摘するのがうまい頭脳明晰な人には、
眉唾もの、胡散臭いものと一蹴されるシロモノかもしれない。
でも、ふと思う。
私達はいったいどこまで人間のことを知っているだろう?
宇宙のこと、国の始まりのことを知っているだろう?
ただ教育や情報によって知っている気になっているだけで、
ほんとは何故自分が今ここにいるのかさえ正確に説明できる人なんかいないのではないだろうか。

既に顧みる余地なしと思っているところに観察や探求を進入させていくには、
恋心にも似た一方ならぬ思い・・・「好き」とか「もっと知りたい」がなければ突き進めまい。
科学的でないものを「迷信」として嗤う人達には持ち合わせない精神的な深さ、
豊かさがここにはあると、私は思う。
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2006.12.01 / Top↑
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