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嫉妬は愛の一部ではない。
嫉妬は所有の一部だ。
所有は愛とは何のかかわりもない。
あなたが愛していれば、嫉妬は不可能だ。
それは全くあり得ない。
愛には完全な自由を与える用意がある。
愛だけが完全な自由を与え得る。
そして、もし自由が与えられないのであれば、
その時にはそれは別の何かだ。
愛ではない。
それは、ある特定のパターンのエゴ・トリップだ。
(ラジニーシ



愛がパートナーや大切な人の行動や思考に制限を与える理由になっているのが現実の中、
「愛と所有は別物」「自由を与えられないのは愛ではなくエゴ」との言葉に、
最初ハッとさせられ、次第に納得させられる。
嫉妬という感情をなくすことは出来なくとも、
その出所が所有欲なのだと知れば、
少なくとも愛という正義の理論を持ち出して相手を拘束することは、みっともなくて出来なくなる。

飯田史彦氏の『愛について』によると、
愛するというのは感情ではなく決めることだとある。
たしかに感情というのは空の雲のように現れては消え、消えては現れ、
ひとところに留まることがない。
そんな不確かなものが愛なのではなく、
何があっても揺るがずこの人のあるがままの人生を応援するということが、
愛すると決めることなのだろう。

信用することと期待することの違いも似ている。
期待は自分の価値観にそって相手が自分の願いを満たしてくれることを望み、
出発点はエゴにある。
信用とは自分の価値観も損得も越えて相手の選択や判断を認めること。
そこにあるのはいい意味での自己放棄、愛だろう。

かくして愛とは自分の中に潜むエゴや所有欲を手放すことであり、
自分と折り合いのつけられない人間は人を愛することもできないことになる。
結局、愛するというのは一つの努力であり、
人間的成長のないところに愛の花は咲かないということだ。
けれども私達は安易に人を愛している、愛せていると思い込んでいる。
パートナーに対して、子どもに対して、友人に対して、
私達は本当に相手を自分の価値観で裁かずにいるだろうか。
その人の自由な選択や判断を尊重し、
たとえそれが自分にとって不本意なことでも
「よかったね、頑張ってね」と応援してあげられているだろうか。
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2007.01.01 / Top↑
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