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用うべき場所で、用うべき器物を、用うべき時に用いれば、自ら法に帰っていく。
一番無駄のない用い方に落ち着く時、それが一定の型に入るのである。
型は言わば用い方の結晶した姿とも言える。
煮詰まる所まで煮詰まった時、ものの精髄に達するのである。
それが型であり道である。
用い方をここ迄深めずば用い足りないのである。
(柳 宗悦)


芸能やスポーツに限らず、何かに精髄するとは、
数知れない試行錯誤の果てに、ストンと腑に落ちる感覚を得ることを言うのであろう。
あるべき姿に行き着く、競技のフォームを習得する・・・何であれ、
一つのことをとことん深めたならば、そこには型があり、道があると。

「自由」という概念が尊ばれ、
「型にはまった」ということを没個性的、非創造的なことのようにとらえる傾向があるけれど、
自由というのは、自分の意志で一つひとつ過剰なものを捨て、不足なものを補い、
克己の先に獲得する「思うように使いこなすことができる状態」ではないかと思う。

ならば柳宗悦の言う型とは、自由な状態のことそのものではないか。
最初から、何でも思いつくままやっていい、
好きなようにやってごらんと言われても人は何一つ優れたものを生み出せない。
これまでに形創られた「型」を模倣し、模倣し、模倣する中で
やがて型破りの独自なものが生まれ、それが新しい「型」となる。
人から見ると、それが自由な創造とか自由な存在と映るだけではないか。

自分という器を使いこなすにも同様の熟練が必要だろう。
一時はやったような自由教育=子どもに自分の意思で何事も選ばせるというやり方では、
結局のところ子どもは伸びないのではないか。
上から押し付けるのとはまた違うが、
型とか伝統とか習慣とか躾とか、
そういうものの意味をもう一度、謙虚に見直してみる必要があるような気がする。

でもその前にまず、大人自身が、
自分という個性に精髄するまでとことん自分を用いてきたかが問われるかもしれない。
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2007.02.01 / Top↑
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