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「意」は似せやすく「形」は似せ難し(本居宣長)

実はうろ覚えで正確な表現か自信がないのだけど、
江戸時代の国学者、本居宣長の言葉である。
一見、逆のように思う。
外見や言動=「形」を真似ることは易しく、
立派な尊敬されるようなこと=「意」を言えるようになるのは難しいと。
でも、本当にそうだろうか。
人に一目置かれるようなことを言えるようになるには、
もちろんそれなりの経験なり勉強を積んできていることが必要だ。
けれども人生訓や、今風に言えば精神世界系のことを語っても、
重み・真実味を持っている人とそうでない人がいる。
言葉通りまったく同じことを語っていても。
それはとどのつまり、語り手の実際に立っているところが
言葉の内容とつりあっているかどうかで決まってくるのだろう。
語り手の立っているところとは、
言い換えれば人間性とか魂のレベルというのかもしれないが、
それは必ず人の姿形として現れないではいない。
目に見える部分だけでなく、
目に見えない勢いとか凛としたもの(今風に言えば、波動とかオーラ?)が
言葉以前の説得力を携えて漂う。
だからやはり「意」より「形」なのだ。
ところが、私たち受け取る側の頭が肥大化し、
真実を直接に受け取るセンサーがにぶってくると、
「意」に惑わされるようになる。
心よりも発達した意識は、
自分が本当に感じているものを認識できず、
知識や良識で判断できることばかり優先して肝腎なものを取り逃してしまう。
江戸時代から既にそんな兆候があったようだが、
現代ではほとんどすべての人がそういう中にいるのではないだろうか?
そして、それが普通になっている故に、
気付く機会もないまま生きて暮らしてはいないか。
理想や思想というものが、
これほど生身の自分からかけ離れてしまった時代はない。
そんなものは潔くかなぐり捨てて、
今、目の前にある現実に直接(なんの意味付けもせず)向き合えたら
どんなに清々しいことだろう。
そしてそこにこそ本当の美しい「形」があるのだと思う。
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2007.05.01 / Top↑
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