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世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、
正くない結果をもたらす正しい選択もある。
このような不条理性を回避するには、
我々は実際には何ひとつとして選択してはいないのだという立場をとる必要がある。
起こったことはもう起こったことだし、
起こってないことはまだ起こっていないことなのだ。
(村上春樹『パン屋再襲撃』)
 

身も蓋もないことを言っているようにも思えるが、
何ひとつ「選択しない」生き方を勧めているわけではなく、
究極的には何ひとつ選択などし得ない、
すなわち人間の浅薄な視力では見えない力によって私達は「選択させられている」と
どこかで自覚しておいた方がいいということだろう。

批評家として名を成した小林秀雄が小説家としてデビューしたことはあまり知られていないが、
晩年の対談で、小説を早々に捨てたことを責められた時、彼はこう返した。
「私が小説を捨てたんじゃない。私が小説に捨てられたんだよ」。

努力によって夢を達成できるのは、
もともと達成できるヴィジョンを持った時だけではないかと思うことがある。
人にはそれぞれ与えられている人生があって、
そこに辿り着くために無駄な(本当は無駄じゃない)試行錯誤やら努力を重ねていく
必要があるのだろう。
なかなか辿り着けないからと動きを止めてしまえば、そこで終わる。

そんなわけで「諦観」という一見消極的に思える姿勢が、
実は、私たちが前に進もうとする時に必要な智慧でもあったりするから人生ってややこしい。
そしてその智慧は、何ひとつ選択していない人生を、
それでも全力で生きようとする先に、
「起こったことは起こったことだし、起こってないことはまだ起こってないこと」という
究極の刹那性、
今この瞬間だけに生きるという達人の生き方を教えてくれる。
選択したつもりのものは、いずれ奪われることになる。
いつまでも奪われないものは、今、ここに与えられて在るのかもしれない。
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2008.07.01 / Top↑
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